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軍艦島(端島)とは?

端島は、長崎県長崎市(旧高島町)にあるかつて海底炭坑があった島で、長崎港から南西約18kmの海上に位置します。もともとは大きな瀬にすぎませんでしたが、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にかけて6回の埋め立て拡張を行い、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1,200m、面積6.5haという今日の大きさになりました。
島の周囲がコンクリートの岸壁で覆われ、高層鉄筋アパートが建ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」とも呼ばれています。

座標 北緯32度37分42秒 東経129度44分18秒
面積 6.5ha
海岸線長 1.2 km
最高標高 47.7 m

どんな歴史があるの?

端島では、1810年頃に石炭が発見され、1870年ごろには、佐賀藩が小規模の採炭を行っていましたが、1890年に三菱社の経営となり本格的に石炭の採掘が開始されました。海面下約1,000m以下の地点にまで及んだ海底炭鉱から採掘される石炭はとても良質で、1890年から1974年の閉山まで約1,570万トンを供給し、隣接する高島炭坑とともに燃料や製鉄用原料炭として造船や製鉄・製鋼の分野の面で日本の近代化に大きく貢献しました。

どんな暮らしをしていたの?

石炭出炭量の増加に比例するように、島の人口も増え住宅建設が盛んに行われました。1916(大正5)年に日本最初の高層鉄筋アパートである30号棟が建造されて以降、様々な施設が次々に建設され、最盛期の1960(昭和35)年には約5,300人もの人が住み、人口密度は当時の東京都区部の9倍にまで達しました。
当時の島内には、病院や学校・商店・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店・パチンコホールなどが立ち並び、島の施設だけで何不自由のない完全な都市として機能していました。

その後どうなっていくの?

国のエネルギー政策の転換に伴い、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより、1974(昭和49)年1月に端島炭坑は閉山、同年4月にはすべての居住者が島を去り、無人島となりました。
その後、30年以上もの時を経て、2009(平成21)年に見学施設が整備され、同年4月に上陸見学が可能となり、新たな歴史を刻み始めました。
2015(平成27)年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。

軍艦島の位置

軍艦島の位置 画像

軍艦島(端島)に残る主な建物など

建物等の名称をクリックすると写真などをご覧いただけます。

建物の位置

建物の位置 画像

1号棟 端島神社

建設年代 :1936(昭和11)年
構造・階数:木造1階

島の頂上部に建設された神社です。神殿の下に拝殿もありましたが、倒壊してしまい、現在は神殿のみが残っています。

3号棟 職員社宅(幹部用・風呂付)

建設年代 :1959(昭和34)年
構造・階数:RC造4階

各部屋に風呂がついた幹部職員住宅でした。

16・17・18・19・20号棟 鉱員社宅(日給社宅)

建設年代 :16・17・18号棟 1918(大正7)年
        19・20号棟 1922(大正11)年
構造・階数:16・17・18・19号棟 RC造9階
      20号棟 RC造7階

鉱員用の社宅であり、各棟は建物西側の廊下でくし形につながっています。屋上には日本初の屋上農園があり、緑と接する貴重な場所でした。

23号棟 社宅(1階)・寺院(2階・泉福寺)

建設年代 :1921(大正10)年
構造・階数:木造2階

木造2階建ての建物で2階には島唯一のお寺がありました。

30号棟 旧鉱員社宅(下請社宅)

建設年代 :1916(大正5)年
構造・階数:RC造7階

日本最古の鉄筋コンクリート造の高層アパート。鉱員住宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。

31号棟 地下共同浴場・郵便局(1階)・鉱員社宅

建設年代 :1957(昭和32)年
構造・階数:RC造6階

1階に郵便局があり、各家庭に電話が普及する前は外部との唯一の情報交換の場所となっていました。また、ボタを海に捨てるためのベルトコンベアが建物を貫通していました。

50号棟 映画館(昭和館)

建設年代 :1927(昭和2)年
構造・階数:鉄骨2階

2階席もあり約400席があった映画館。娯楽が少なかった島では定期船が欠航しても映画のフィルムだけは無理をしてでも搬入していたそうです。しかしテレビが普及し始まると映画も下火になり閉山前は卓球場として使われていました。

65号棟 (北棟)鉱員社宅・(東棟)鉱員社宅・屋上保育園・(南棟)鉱員社宅

建設年代 :(北棟)1945(昭和20)年 (東棟)1949(昭和24)年 (南棟)1958(昭和33)年
構造・階数:(北棟)RC造9階 (東棟)RC造10階 (南棟)RC造10階

端島で最も大きな建物で、児童公園をコの字形で囲む形をしています。北、東、南棟の順で建てられました。東棟の10階には保育園もありました。

67号棟 鉱員合宿(単身寮)

建設年代 :1950(昭和25)年
構造・階数:RC造4階

正面の外階段がX型の象徴的な建物です。メーデーのときはこの階段に横断幕が掛けられていました。

69号棟 端島病院

建設年代 :1958(昭和33)年
構造・階数:RC造4階

島に住む人々の健康を守ってくれた病院です。入院設備や手術設備もありました。

70号棟 端島小中学校

建設年代 :1958(昭和33)年
構造・階数:RC造7階

1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、図書館、音楽室、7階には理科室などの特別教室が設けられていました。給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもありました。

71号棟 体育館

建設年代 :1970(昭和45)年
構造・階数:RC造2階

端島で最後に建てられた建物です。1階に武道場を備え、2階が体育館となっていました。

プール

建設年代 :1958(昭和33)年

25mプールと、横に幼児用の浅いプールが併設されていました。プールの水には海水を使用していました。

ドルフィン桟橋

建設年代 :1962(昭和37)年

過去2度台風で流出した経験を元に建造された人工島の桟橋で、台風の猛威に耐える頑丈さを誇り閉山まで利用されました。現在では軍艦島上陸ツアー用の桟橋として再び端島の玄関口となっています。

天川の護岸

明治期、島の拡張に伴う護岸づくりは、石灰と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接合剤を用いた石積み工法により盛んに行われました。この擁壁は現在でも島内のいたるところに残っており、独特の景観を生み出しています。

地獄段

16号棟の横から島の頂上である端島神社まで繋がる急勾配の階段は島の人々から地獄段と呼ばれていました。

潮降り街

海が荒れると五島灘からの波しぶきがアパート群を超えて降ってくることからこのように呼ばれるようになりました。また、この付近にある59・60・61号棟の地下には様々な商品を取り扱っていた地下購買会や共同浴場もありました。

端島銀座

野菜、果物など新鮮な食物や洋服などの日用雑貨の露店からなる市場が開かれ、午前中にはすべての商品が売り切れるほどの賑わいを見せていたそうです。

第二竪坑

明治28年に開坑、採炭開始し、閉山まで主力坑として使用されていました。開坑後も改修が行われ、追堀が完了する昭和12年には深さ約600メートルに達しました。

第二竪坑桟橋

炭鉱施設は、現在ではほとんどが崩壊していますが、第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。

総合事務所

炭鉱施設の中枢であった建物です。中には鉱員のための大きな共同浴場がありました。

第四竪坑

大正14年完成し、深さは約370メートルでした。通常は排気用として使用、主力坑である第二竪坑に支障があった場合はその代用として使用され、閉山まで使用されました。

第四竪坑捲座

貯炭場

精炭(精選された石炭)がベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。現在ではベルトコンベアーの支柱が残っています。

貯水槽